メディア・リテラシーとはその”不在”に思いを馳せること。

メディア・リテラシーとはその”不在”に思いを馳せること。

いやぁ、本日も大変暑うございました。台風一過、とおもった矢先、関東甲信越地方は梅雨明けを迎えました。いよいよ夏本番!子ども達よ、否、大人達よ、そして塾生らよ、よく学び、よく遊べ!

本日のテーマはこちら↓

まずは近況報告をお互いしあったのち、

・トイレのピエタを塾生が見てきたので、その報告を楽しく聞かせてもらいました。それから、話をまた元に戻して、

・80歳のおじいちゃんたちの物語を物語ること、から講義を再開させていただきました。

途中、私の恥ずかしい浪人時代の話なども交えながら、議論を進めてっいた次第です。

・いじめられている人、いじめている人

・大学はいつできたの?

・文系・理系ってわけるのって、なんかダサくない?

 

 

・エリートはどうふるまうか?

・メディア・リテラシーとは”そこにある不在に思いを馳せ、その不在を語り継ぐこと”。

・手紙の書き方(拝啓・敬具の使い方、時候の挨拶、脇付けの配置)

最近、メディア・リテラシーとは何か、という命題を考え続けておりました。私自身、恥ずかしながらメディア・リテラシーとは何かをあまりわかっていませんでした笑

そのため、時にながながと講義をしたこともあります。たしかに、たったひとことでメディア・リテラシーという膨大な歴史を背負ったことばを説明することは少し乱暴なのかもしれません。ですが、あえて、短く一括して述べることにも、真理は宿るものだと強く思うようになりました。それをただ単に歳をとったものと思う自分もいるのですが、それ以上にそれは、その人間がメディア・リテラシーを語る上で大切にしているなにかが如実に現れてくるものだと思うのです。

今日、塾生と議論することでわかったことがあります。

それは、メディア・リテラシーとは…

 

”そこにある不在に思いを馳せ、それを語り繼ぐということ”

 

…ということです。

メディア・リテラシーはしばしば、そのマスメディアに限定され、情報の正しい読み解き方、およびその受容過程に重きが置かれます。ですが、この講義でなんども扱っている通り、リテラシーとは、読み・書き・そろばんを意味するので、マスメディアの情報を紐解くことは、通常のリテラシーの読みに相当します。そして、書きは、現在で言う所の発信を意味します。

そして、メディアはなにもマスメディアに限ったことではありません。わたしたちを取り巻くありとあらゆるものがメディアなのです。今、私が使っているパソコンも、あなたが見ているスマートフォンも、さっきまで握っていたペンも、ガスコンロも、レンジもみなわたしたちを取り巻くもの、つまり、メディアなわけです。

こうしたメディアに常に自覚的に関わりを持ち続けることを批判的メディア実践(『21世紀メディア論』水越伸著)といいます。この塾はその批判的メディア実践という活動の一環でもあります。

今までの講義を受けたみなさんならお分かりになるかと思いますが、スマホを見るだけでなにか頭をよぎりませんか?

 

スマホを見れば、電気を考え、原発を考え、言論の自由を考え、ラジオを考え、電話を考え、おかあさんを考えませんか?そこにある”不在”とは、まさにその連想ゲームのことなのです。それを想像力ある批判と私は呼びたいと考えます。教養コースでは、この”不在”を考えるトレーニングを積んでいきます。

家に帰れば用意してあるご飯、その一品、一品におかあさんの愛情が込められています。お父さんの汗水が込められています。その”不在”に思いを馳せられるようになったらもう一人前!藝塾・教養コースの免許皆伝です!

とはいえ、そこからが実はスタートでもあるのです。その試練を突破したらいよいよ、実践編、次は、反知性主義との戦いが待っています。次回は、教養を身につけるためにできることは何か、それをこれからみなさんと一緒に考えていきたいと思います。

 

 

 

本日の名言はこちら↓
・人に歴史あり!
・三人行けば必ず我が師あり
・己に如かざる者を友とする勿れ

本日もかなりいい授業をすることができました。損は絶対しないのでぜひご覧ください!(^-^)

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